前回の記事中で、
鬼よりも、チョット多くのコメントいただいた、
「1年3組、体罰先生!」
※ ちょっとだけ、金八先生っぽく。
禁パチだったら、パチンコ禁止先生。
禁8だったら、8歳以下禁止先生。
(8歳以下禁止って、どんななんだ?)
について、少し書くことにしました。
なぜ、耳が悪くなったかというと、
きっかけは、風邪でプールを休んだ日のこと。
その先生が「そんなのは、水を浴びれば治る!」と言って、
服を着たまま、シャワーを十数往復させられ、
それが引き金で慢性中耳炎になり、
音声が多少聞きづらくなって、(多少ですよ!)
四六時中セミが鳴くようになりました。
(耳鳴りは、気になって寝れないときも)
その他にも、
1.給食を無理矢理食わされ、午後の体育授業中、
体育館の中心でゲボを飛ばす。(ヒリャイ堅さんの曲?)
2.その先生は、美術の先生で
小学5年で再び担任になってしまい、
絵を描く授業で、独りずつ廊下に並ばされ、
お気に入りの生徒は、べた褒めして、
気に入らない生徒の絵は、目の前で破かれた。
3.ビンタ・机を蹴るは日常茶飯事。
グーで殴られた事もありますよ!
当時は、容認されてた時代ですからねぇ・・・。
まあ、そんなこんなで、
ええ歳こいても、未だに会社でもパワハラ受けるという、
皮肉というか、そーゆー運命というか、
負の連鎖は断ち切りたいところですが、
髪の毛は断ち切りたくないナゲーです。
(さすがにその先生は評判が悪くなって、小6進級時に飛ばされました)
ということで、体罰的ナゲーブログ
(見させられること自体が体罰)
本日は、ナゲーが小学1年の話題になりましたので、
ついでに、おそらく1977年にオヤジに連れていかれた
豊橋の電車を写した、オヤジカメラ汚写真を
出し惜しみで2回に分けて、ご紹介致します。
体罰は立派な暴行罪ですので、御注意下さい。
オヤジはナゲーと同じく、子供が苦手なので、
暇さえあれば、金華山登山か電車乗り回しに
連れていかれました。
たぶん1977年だったと思うんですよね。
(後ほど出てくる、ジャージナゲーから推測)
「市」と「民間企業」が協力し、商業施設と一体化した駅が
昭和25年に日本初として誕生した駅。
この建物は1970年に開業した
「豊橋ステーションビル」
百貨店のように、たくさんの店舗が入っていました。
貨物駅も併設されていて、
コンテナ列車を中心に扱っていました。
チョコレートパフェが大好きだったナゲーは、
これさえ与えとけばおとなしいわ!みたいな、
オヤジの作戦にまんまと乗っかり、
こーゆーね、ショーワの喫茶店大好き!
すっかり少なくなりましたねぇ。
当時の値段は、確か¥300~400程度だったかと。
豊橋までもジャージで行くナゲー。
昼飯はラーメンが定番でしたので、
食後のデザートかなぁ。
(こんなの見せるなぁ!てか)
「3200形」は、元名古屋鉄道さんの「モ580形」
1976年に入線しました。
だいたい、名鉄電車のお古が回って来ていました。
今はどうか知らないですが、
かつては路面部門の方が黒字運営だったと聞いております。
岐阜市と違って、路面内は自動車通行禁止だし、
かなり優遇されてました。
3200形は現在1両のみ在籍し、
「ちんちんおでん車」等のイベントでも活躍中です。
(並べ替えると、「おちんちんでん車」・・・ヤベ!)
「競輪場前」という停留所で下りたようです。
(岐阜のチンチン電車にも「競輪場前」有りました)
豊橋駅に戻ってきて、
(車両も撮ってくれれば良かったのに)
都会から追い出された、旧型国電が闊歩する
マニア垂涎の路線でした。
できれば、沿線で走っている姿を撮りたかった・・・。
だから!!!
ナゲーを入れて、撮って欲しくないワケ!!!
せっかくの電車が台無し!
国鉄「80系」電車は、1950年に登場した
はじめて「湘南電車」と呼ばれた形式。
それまでの長距離を走っていた機関車牽引列車を、
電車に置き換える目的で製造され、
長距離準急列車に使用され、東京から関西まで
走り回った車両。
余生は、飯田線でノンビリ過ごすことになりました。
(ナゲーの余生は、ノンビリ老人ホームかなぁ)
飯田線は、発車直前まで誤乗防止のため
名鉄電車のような系統板を掲げるのが
伝統みたいな感じでした。
JR化されたあともしばらくは続いたようです。
発車直前に外されました。
先頭は、誰も見ないので
何も付けられず、素顔のままでした。
ナゲーが小さい頃は、東海道線は
こんな電車ばかり走ってました。
懐かしさがこみ上げてきて、
吐きそうになるナゲーですが、
(そんなにヒドイ思い出なのか・・・)
次回もオヤジカメラ汚写真・豊橋駅を
ご紹介して参ります。
あの頃は、良かったなぁ・・・
(今は良くないのか?自由が無いもんね)
今日はこの辺りで失礼します。