今年、中学3年の娘が
高校受験を迎えます。
1986年当時、登校拒否を繰り返し
成績は最低。しかし、試験的推薦制度で
首の皮1枚繋がり、中学3年の10月で
受験をすることなく高校に合格、
クラスのみんなが受験で苦しむ3月は
ボッチで遊びまくった
苦しみの知らない甘ったれナゲーです。
ということで、
前回で「日本国有鉄道」は幕を閉じ
翌日1987年4月1日
「JR7社」がスタートしました。
東京から帰った翌日、早速近所へ
撮影しに突撃しました。
(ちなみに「鉄」の字は、右側の「失」の上が出ていない字)
(「金」を「失う」から、上の出っ張りを引っ込めたらしい)
では、ご紹介します。
最初に来たのが「JR貨物 EF65形1000番台」
何が変わったかというと
「JRマーク」が車体側面に貼り付けられただけ。
いつもと変わらない姿。
続いてやってきた「JR東海 急行のりくら」
「期待を担って JR東海」のマークが
付けられていました。
こちらもJR東海所属の「特急 ひだ」
僕ではちょっと、意味が理解できない
「旅 JR東海」のマーク。
こちらは新体制ムードの「よろしく」マーク。
113系は湘南色で、
JR東海のシンボルカラー(オレンジ)と
ちょうど半分くらい、色がかぶります。
関係ないですが、後方の踏切左側の小屋は
有人踏切だった「竜田町踏切」の踏切保安掛詰所。
ハンドルをグルグル回して、遮断機を下ろしていました。
いずれも、通常モードの
「JR東海 急行のりくら」
どうも、1号・2号あたりしか
マークは付かなかったようです。
撮っているところは、
線路を潜る地下道の屋根上。
線路際には、相変わらず植木や畑が。
「よろしくJR東海」マーク付きの
「名古屋地区向け211系」
おでこには、でっかく「JR]シールが。
しばらくして、車体色は
湘南色に変更されてしまいました。
普段通りの「JR東海 113系」
非冷房車の統一編成。
当時は冷房が無くても耐えられた時代。
真夏でも非冷房車が、平然と走っていました。
いかに地球温暖化が進んでいるかが分かります。
車体側面には「JNR」と「JR」が共存。
普段通りの「JR貨物 車扱貨物」
今では見られなくなった、
多彩な貨車のごちゃまぜ編成。
「JR東海 117系」のよろしく貼り紙。
117系には、比較的多数の編成に
貼ってありました。簡単だからかな。
117系も、しばらくして
JR東海オリジナルカラーに塗り替えられました。
やはり、「JNR」と「JR」が共存。
通称「赤ホキ」も、通常通り。
「JRシール」だけは、一夜のうちに
全車両に(先頭車と機関車だけですが)貼ったようで、
それはそれで、すごい作業です。
日本国有鉄道という全国統一組織だから出来た、
最後の成せる技だったと思います。
こうして、新生JRの初日は終わりました。
やはり、特に祝賀ムードでもなく、
通常通り、淡々と走っているという印象でした。
当時は子供だから分かりませんでしたが、
国鉄改革で、7万人余りの職員がJRに採用されず
退職を余儀なくされ、
現場はとても祝賀ムードとはいかない雰囲気が
あったと思います。
「JR」になってからは、地域密着の反面
会社間の連携が無くなり、
他社乗り入れの列車は冷遇や意地悪ダイヤに。
金儲け主義に走る余り、ひずみが出て大事故が連発。
富裕層対象の列車が多数登場するかわりに
庶民の列車はどんどん削減や廃止。
はたして、JR化がよかったのかというと、
やはり、「?」が、僕の正直な気持ちです。
なっちゃったものは仕方が無いですけど、
なんでもかんでも民営化するのは
いかがなものかと、今でも思います。
とにかく、JR最初の1日は、
こうして終わりました。
これ以後、さまざまな事態が起こる事になります。
まさに、人生は茨の道ですね。
ネコはネコで、苦労があるんだよ・・・。
今日はこの辺りで失礼します。